トルソー


昨日夕方、コールあり。


祖母が緊急搬送されたとのことだった。祖母の娘である母と、孫である私(病院が職場近くだったので)で駆けつけた。病院には既に報せを聞いて到着していた私の妻と娘も来ていた。しかし、精密検査に入ったため祖母とはちらと話したのみらしい。なので、妻と娘には家に帰って待つように伝えて、母と私で緊急外来のソファーに陣取った。そのうち、意識や記憶が曖昧な祖母がベッドに横たわっているのに付き添うことになった。しばらくすると、医師に呼ばれ「自分より冷静そうだから」という母の希望で、私が医師より所見を聞くことになった。


曰く「悪性腫瘍と、そこに起因するトルソー症候群ではないか」と。要はがん、及びがん由来の脳梗塞による記憶障害や認知機能の低下。更には全身転移の可能性もあり、急変もあり得るので、延命措置の希望・非希望も早めに決めておかれよと。家族のがく告知を医師からされるのは、もっと先のことで、自分の親のそれだろうとタカをくくっていた私にとっては、唐突なことであった。しかし、告知というのは得てしてこんなものなのだろうとも思った。


入院手続き後、私は母と実家に赴き、母と父にその旨を話した。このとき、医師に許可をとってメモをとりながら所見を伺ったことが役に立った。そこで、延命は本人も我々も望まないことであることを確認して、昨日は解散した。



私が家に帰ると、ダイソン扇風機様が鎮座なさっていた。ダイソン様は、我が家の幼児が扇風機やサーキュレーターの羽根に手を挟まれないように買ったものだ。科学の勝利を意味する逸品と言える。


それを見て、病院にいる間、祖母が私のiPhoneで延々とひ孫の動画や写真を眺めていた様子を思い出した。私も祖母になんと声をかけてよいか分からず、とりあえず幼児のソフトパワーにあやかりひたすら幼児の姿を映し出していた。祖母も記憶が混濁しながらも、ひ孫のことは可愛く思い出せるらしかった。


そこで思いついたのはiPadを祖母に買ってやろうか、ということであった。うまく使えるどうか分からないが、そこに仕込めるひ孫の動画と写真が、祖母にとってはなによりも慰みになるし、最高の娯楽であることは疑いようがない。


宮沢和史くんがかつて

「子供らに花束を、年寄りにゆりかごを。明日生まれ死ぬ者に絶大な愛を」

と歌っていたことが思い出された。


僕にとって花束やゆりかごは、ダイソンとiPadであった。


強迫性障害という言葉は知っています

僕は非常に小心者だ。年中、気苦労や余計すぎる杞憂に悩まされている。

 

例えば、家を出るとき。

何度も鍵がかかっているか確かめないと恐ろしくて仕方がない。ガチャガチャ、何度もドアノブを確かめる。確かめたあとでまた開けて、電気や火の元を確認する。そしてまた鍵を閉める。ガチャガチャ。

それでも、10分程歩いたところで「あれ?家の鍵きちんと閉めたっけ?」と急に不安になることがある。急いで出かけた時など、きちんとキーロックを意識せずに外出してしまうからだ。(つまり、意識的に「鍵を閉めた」という記憶を作らないといけないのだ)

すると、鍵を閉めていないことで起こり得る数々の事故・災害・犯罪が頭の中に渦巻く。火事・放火・泥棒は序の口だ。

火事で集合住宅のわが部屋が焼けるだけならまだ良い。しかし、隣の部屋の猫ミーちゃん(メス4歳)も焼け死んでしまったらどうしよう。ミーちゃんは昼は一人で留守番している。僕は動物好きなので余計に心が痛む。更に、飼い主からの怒号と賠償金請求の日々。心が削がれていく。それらをなんとかこなして立ち直ったかに見えた数年後、自身の心に芽生えた罪悪感を拭い切れず、あのミーちゃん(メス4歳)が枕元でつぶやく。「熱いニャー」「あの日を忘れるニャー」

泥棒はどうだろう。彼らは比較的高価なPCを狙うだろう。すると、PC内に保存していた赤裸々な個人情報が流出する。お金・クレジット情報関係のデータは抜き取られ、自分の乳首の毛を盆栽のように慈しんで育てているパーソナルな趣味は晒され、仕事上の関係者連絡先が流出し、ひっそりしたためていた俺の人生の許されざる者リストが公表されて人間関係は破綻、、、今ですら低空飛行を続ける預金残高と社会的地位が、地獄の最下層コキュートスまで落ちていく。そんな未来が、一気に脳内にほとばしる。

皆さんご存知かと思うが、僕は幼少時より想像力が豊かなほうだった。

 

こんな時、普通は

「まあ、大丈夫。いつも閉めているしきっと閉まっている。仮に閉まっていなくても、そんな稀な不幸に自分が遭うこともないだろう」

と自分を信じて前に進むのだという。そう聞いている。自分を信じられる人間のなんと強いことか。(そして、なんと傲慢か)

私は自分が信じられない。他人は信じられないが、自分はもっと信頼できない。引き返す。絶対引き返すマンになる。だって、今、引き返さなかったら、ずうっと一日中鍵のことばっかり考えて使い物にならないから。一日を空費するしかないのだ。妄想のような不幸が現実に訪れる気がして仕方がない。その不幸が現実と成る可能性は、僕には100%に思えてならない。きっと、起こる。

だが、今戻れば傷は浅い。確実に傷になるが、浅い。会社に遅れる、上司に不審がられる、気まずい、忘れ物しちゃってへへへへとへらついて遅刻として処理する。ちょっと気が緩んでんじゃないのーで済む。あとは、一日晴れやかに穏やかに生きていられる。仕事もはかどる。飯もうまい。「火事も損害賠償も猫の亡霊も泥棒も人間関係破綻も起こり得ない、素晴らしい今日」が立ち上がってくる。こんなにうれしいことはない。

 

そうして、僕は今日も駆ける。ネクタイを振り乱し、走る。

今来た道を引き返す。だって、そこに僕の心の安寧があるから。

「すいません、今日20分程遅れそうです!はい!携帯電話を家に忘れまして!」

お前がどこから何で電話しているんだ。そんな疑問はこの青い空に溶けてゆく。

平成28年、夏の匂いのする日、これは僕の大きな杞憂と小さなミスの話だ。

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便所の読書の効用

 

彼女が看護をやっているので、家にはその手の本が置いてある。
すると、まあ普段読まなそうな本ほど読んでみたくなるのが人情だ。
僕は便所に中井久夫「看護のための精神医学」を置いてみて、日々、ちょっとずつ読んでいた。
すると、この中井久夫という御仁はとてもおもしろく、語り口が優しく軽やかで、非常に興味を持った。
そこからちくま学芸文庫で出ていた中井久夫コレクションをちょぼちょぼ購入して読んでいる。
ちなみに、この便所文庫には、僕の趣味で春日武彦も置いてみたりした。
(普段は短編小説集、詩集や谷川俊太郎のエッセイなどを置いてある)

 

そういうわけで、僕は多少なりとも精神医学の単語や理論といったもの、
もしくは臨床における一事例なども知っていてもよさそうなものである。
しかしながら、これが全く頭に入っていない。
どころか、同じ単語や専門用語を、何度も彼女にきいたりする。
そうかそうだったか、と思い、そしてまた読むたびに、僕は「ほうー」と感心する。
あほである。便所で授かった知識は、やはり糞尿とともに下水に流れているのではないかと疑いたくもなる。

 

同じように、僕は便所文庫に、ウイスキーや日本酒のムック本も置いてある。
これが時間つぶすのによく、また酒の拵え方から世界の銘柄、酒税法の今昔など学ぶことしきりである。
なのに、僕は日本酒についてもウイスキーについても、ほとんど語ることができない。
お酒の程よい蘊蓄を語って、女の子達に「やだあ博識だわ」と褒められたい。
バーや小料理屋の店主と「おぬしやるな」「そちらこそ」というアイコンタクトを交わしてみたい。
しかし、酔ってしまえばてんでおしまいである。あんなに感心したあの酒の製法、なんだっけ。
まあいい、うんまいからいいや。とにかく飲んじまおう。うまいのは良いことだ。
と、万事がこの調子である。

 

 

これが「便所で読む本は頭に入らない」という話である。
しかしながら、僕はこのことを考えながら、二つのこわい想像をしている。
ひとつは「そもそも、モノを覚え考える能力が減退したのでは」という老いと衰えへの恐怖。あり得る。こわい。
そして、もうひとつは「そもそも、精神医学もウイスキーも日本酒も女の子も文学も、そんなに好きじゃなかったのでは」という恐怖。
人並みに世の楽しみを覚えたと思っているけど、やっぱり、お前は自分以外のものに興味がないんだよ、熱意がないんだ。とかいう恐怖。