便所の読書の効用

 

彼女が看護をやっているので、家にはその手の本が置いてある。
すると、まあ普段読まなそうな本ほど読んでみたくなるのが人情だ。
僕は便所に中井久夫「看護のための精神医学」を置いてみて、日々、ちょっとずつ読んでいた。
すると、この中井久夫という御仁はとてもおもしろく、語り口が優しく軽やかで、非常に興味を持った。
そこからちくま学芸文庫で出ていた中井久夫コレクションをちょぼちょぼ購入して読んでいる。
ちなみに、この便所文庫には、僕の趣味で春日武彦も置いてみたりした。
(普段は短編小説集、詩集や谷川俊太郎のエッセイなどを置いてある)

 

そういうわけで、僕は多少なりとも精神医学の単語や理論といったもの、
もしくは臨床における一事例なども知っていてもよさそうなものである。
しかしながら、これが全く頭に入っていない。
どころか、同じ単語や専門用語を、何度も彼女にきいたりする。
そうかそうだったか、と思い、そしてまた読むたびに、僕は「ほうー」と感心する。
あほである。便所で授かった知識は、やはり糞尿とともに下水に流れているのではないかと疑いたくもなる。

 

同じように、僕は便所文庫に、ウイスキーや日本酒のムック本も置いてある。
これが時間つぶすのによく、また酒の拵え方から世界の銘柄、酒税法の今昔など学ぶことしきりである。
なのに、僕は日本酒についてもウイスキーについても、ほとんど語ることができない。
お酒の程よい蘊蓄を語って、女の子達に「やだあ博識だわ」と褒められたい。
バーや小料理屋の店主と「おぬしやるな」「そちらこそ」というアイコンタクトを交わしてみたい。
しかし、酔ってしまえばてんでおしまいである。あんなに感心したあの酒の製法、なんだっけ。
まあいい、うんまいからいいや。とにかく飲んじまおう。うまいのは良いことだ。
と、万事がこの調子である。

 

 

これが「便所で読む本は頭に入らない」という話である。
しかしながら、僕はこのことを考えながら、二つのこわい想像をしている。
ひとつは「そもそも、モノを覚え考える能力が減退したのでは」という老いと衰えへの恐怖。あり得る。こわい。
そして、もうひとつは「そもそも、精神医学もウイスキーも日本酒も女の子も文学も、そんなに好きじゃなかったのでは」という恐怖。
人並みに世の楽しみを覚えたと思っているけど、やっぱり、お前は自分以外のものに興味がないんだよ、熱意がないんだ。とかいう恐怖。