強迫性障害という言葉は知っています

僕は非常に小心者だ。年中、気苦労や余計すぎる杞憂に悩まされている。

 

例えば、家を出るとき。

何度も鍵がかかっているか確かめないと恐ろしくて仕方がない。ガチャガチャ、何度もドアノブを確かめる。確かめたあとでまた開けて、電気や火の元を確認する。そしてまた鍵を閉める。ガチャガチャ。

それでも、10分程歩いたところで「あれ?家の鍵きちんと閉めたっけ?」と急に不安になることがある。急いで出かけた時など、きちんとキーロックを意識せずに外出してしまうからだ。(つまり、意識的に「鍵を閉めた」という記憶を作らないといけないのだ)

すると、鍵を閉めていないことで起こり得る数々の事故・災害・犯罪が頭の中に渦巻く。火事・放火・泥棒は序の口だ。

火事で集合住宅のわが部屋が焼けるだけならまだ良い。しかし、隣の部屋の猫ミーちゃん(メス4歳)も焼け死んでしまったらどうしよう。ミーちゃんは昼は一人で留守番している。僕は動物好きなので余計に心が痛む。更に、飼い主からの怒号と賠償金請求の日々。心が削がれていく。それらをなんとかこなして立ち直ったかに見えた数年後、自身の心に芽生えた罪悪感を拭い切れず、あのミーちゃん(メス4歳)が枕元でつぶやく。「熱いニャー」「あの日を忘れるニャー」

泥棒はどうだろう。彼らは比較的高価なPCを狙うだろう。すると、PC内に保存していた赤裸々な個人情報が流出する。お金・クレジット情報関係のデータは抜き取られ、自分の乳首の毛を盆栽のように慈しんで育てているパーソナルな趣味は晒され、仕事上の関係者連絡先が流出し、ひっそりしたためていた俺の人生の許されざる者リストが公表されて人間関係は破綻、、、今ですら低空飛行を続ける預金残高と社会的地位が、地獄の最下層コキュートスまで落ちていく。そんな未来が、一気に脳内にほとばしる。

皆さんご存知かと思うが、僕は幼少時より想像力が豊かなほうだった。

 

こんな時、普通は

「まあ、大丈夫。いつも閉めているしきっと閉まっている。仮に閉まっていなくても、そんな稀な不幸に自分が遭うこともないだろう」

と自分を信じて前に進むのだという。そう聞いている。自分を信じられる人間のなんと強いことか。(そして、なんと傲慢か)

私は自分が信じられない。他人は信じられないが、自分はもっと信頼できない。引き返す。絶対引き返すマンになる。だって、今、引き返さなかったら、ずうっと一日中鍵のことばっかり考えて使い物にならないから。一日を空費するしかないのだ。妄想のような不幸が現実に訪れる気がして仕方がない。その不幸が現実と成る可能性は、僕には100%に思えてならない。きっと、起こる。

だが、今戻れば傷は浅い。確実に傷になるが、浅い。会社に遅れる、上司に不審がられる、気まずい、忘れ物しちゃってへへへへとへらついて遅刻として処理する。ちょっと気が緩んでんじゃないのーで済む。あとは、一日晴れやかに穏やかに生きていられる。仕事もはかどる。飯もうまい。「火事も損害賠償も猫の亡霊も泥棒も人間関係破綻も起こり得ない、素晴らしい今日」が立ち上がってくる。こんなにうれしいことはない。

 

そうして、僕は今日も駆ける。ネクタイを振り乱し、走る。

今来た道を引き返す。だって、そこに僕の心の安寧があるから。

「すいません、今日20分程遅れそうです!はい!携帯電話を家に忘れまして!」

お前がどこから何で電話しているんだ。そんな疑問はこの青い空に溶けてゆく。

平成28年、夏の匂いのする日、これは僕の大きな杞憂と小さなミスの話だ。

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